安芸国と速谷神社

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安芸国の祖神安芸国の祖神

阿岐国造の石碑

阿岐国造の石碑

 広島県西部を中心とした地域は、その昔、「安芸国」と呼ばれていました。安芸は古くは「阿岐」と書きましたが、その黎明期は国境も定かではなく、詳しいことはわかっていません。
 ただ、神武東征の昔からこの地は有力な古代氏族に統治されていたことが知られています。この氏族こそ、太古の山陽道に君臨し、大和政権からのちに「阿岐国造(あきのくにのみやつこ)」と呼ばれた安芸国の遠祖たちです。

 平安時代初期の『旧事本紀』には、

阿岐国造。 志賀高穴穂朝。天湯津彦命五世孫飽速玉命定賜国造。

という記述があります。

 これが阿岐国造について書かれた唯一の記録です。ここから、成務天皇(志賀高穴穂)の時代(131-190)に国造に任じられたこと、そして彼らが飽速玉命(あきはやたまのみこと)という神を祀っていたことを読みとることができます。
 この飽速玉命こそ、速谷神社の祭神であり、阿岐国造が神代の昔から祀ってきた祖神です。安芸の地名の由来は、「飽=アキ」とする説があり、飽には豊かという意味があります。また、「速玉」とは神聖なる霊のことです。

 ところで飽速玉命は、皇室の神話である『古事記』や『日本書紀』にその名がありません。そのため、阿岐国造も天皇家とは血縁のつながりをもたない地方豪族と考えられています。しかし彼らは、古代瀬戸内に隆盛した雄族であり、大和政権の信頼厚く、蜜月の時代が長くつづいていたようです。それを裏付ける証拠は、平安中期、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』にあります。


 『延喜式』の巻九・十は古代の神社を網羅した「神名帳」があり、当時の神社とその格式を知ることができます。延喜式記載の神社は「式内社」と呼ばれ、千年以上続く由緒ある神社ということになります。  さてこの式内社二千八百六十一社は、国別、郡別に羅列され、その重要度によって、官幣社(大社・小社)、国幣社(大社、小社)に分類されています。

 官幣大社(198社)     国幣大社( 155社)     うち名神大社( 224社)
 官幣小社(375社)     国幣小社(2133社)

 官幣社とは朝廷じきじきに幣帛(供物)を受ける神社、国幣社は国ごとの国司から受ける神社で、また官幣・国幣大社のなかでも特に霊験あらたかな神社は名神大社として、別に記されています。

延喜式神名帳[東京国立博物館提供]

延喜式神名帳[東京国立博物館提供]

山陽道安芸国は、以下の通りです。

【 佐伯郡二座 並大 】
速谷神社      名神大   月次新嘗
伊都伎島神社   名神大
【 安芸郡一座 大 】
多家神社      名神大

 安芸国三社はいずれも名神大社ですが、速谷神社だけに「月次新嘗」とあり、これは官幣大社であることを示しています。伊都伎島神社(厳島神社)と多家神社は国幣大社、一方、山陽道備後国十七社はすべて国幣小社です。
 このことから速谷神社は、古代、朝廷から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社として、広島県地域でも突出した神社であったことがわかります。

 さてこの官幣大社ですが、実は都から近い畿内の五国に集中しています。官幣小社はすべて畿内に、国幣大社と国幣小社はすべて畿外にあります。これは、当時の神社には都にのぼって幣帛を受け取る決まりがあり、遠地の神社は毎年の上京が困難だったためとみられています。
しかし朝廷は、特別に重要な神社に限って、たとえ遠方であっても自ら幣帛を奉ることをやめませんでした。

 そして実際に律令制のもとで都から遠い「遠国」と呼ばれた地域で官幣大社は、わずか五社に過ぎません。

 東海道武蔵国・氷川神社    東海道安房国・安房神社    東海道下総国・香取神宮
 東海道常陸国・鹿島神宮    山陽道安芸国・速谷神社

 これらの神社はいずれも皇室が重要視していた大社であり、速谷神社は、かつて中国九州地方唯一の官幣大社として、山陽道でも随一の神格を認められていたことになります。


 ところで、大和政権と阿岐国造の結びつきを示す逸話はほかにも存在します。実は『旧事本紀』には、安芸国以外にも大化の改新以前にあった全国百四十四国について、国ごとにその起源が記されています。そしてこのうちの九国は、阿岐国造と同族の人物が国の長として派遣されていたのです。

 阿尺国   思(太)国   伊久国   染羽国   信夫国  
 白河国   佐渡国   波久岐国   怒麻国

 阿尺国から白河国までの六国は蝦夷地と呼ばれた東北にあり、現在の福島県北中部から宮城県南部の地域です。また佐渡国は新潟県の佐渡島、怒麻国は愛媛県北部にあり、波久岐国は山口県にあったと考えられています。
ここで注目すべきは、これらの国々がかつて大和政権を守る最前線だったということです。政権の阿岐国造に対する信頼の高さがうかがえます。

 神代からつづく有力豪族の阿岐国造ですが、その国土運営は決して容易なものではなかったはずです。西には、朝鮮半島から伝わった鉄を大量に保有し、日本列島の先進地域だった北部九州があり、北と東には、優れた製鉄技術によって大和に対抗するほどの勢力を誇った出雲と吉備の王権がありました。
 こうした強力な古代勢力に囲まれた阿岐国造が独立国を維持しようと思えば、かなり屈強な軍事力を備えていたはずです。また彼らは、古代の大動脈・瀬戸内海の制海権を握っていた可能性があります。阿岐国造の子孫が入植したと伝わる怒麻国は、歴史上著名な海賊発祥の地であり、阿岐国造の瀬戸内海支配をうかがわせる貴重な証拠です。

阿岐国造の子孫を祀る野間神社(愛媛県今治市)

阿岐国造の子孫を祀る野間神社(愛媛県今治市)

 古代の史料をたどり解き明かしていくと、埋もれていた歴史の姿がみえてきます。大和政権が誕生し発展していく過程で、阿岐国造という大豪族を味方につけるか敵にまわすかは、政権存亡の鍵を握る大問題だったのではないでしょうか。
 そして、九州や朝鮮半島に備える西の要として、出雲や吉備への抑えとして、阿岐国造は頼もしいパートナーであり、その祖神に最高の礼を尽くすことは、大和政権にとって重要な政治案件だったと考えて間違いないように思います。


速谷神社近世絵図(江戸時代の速谷神社)

江戸時代の速谷神社

 時代はさかのぼり、地方制度が整えられていくと、阿岐国造の同族諸家は、中央から赴任してきた国司の管理下にはいり、新設の評督(のちの郡司)や助督として、安芸国の各地に配置されたようです。
 佐伯郡をはじめ、安芸郡や山県郡、高田郡などに赴任し、それぞれが管轄する地域の大地名や小地名を名字にしました。有力な末裔には佐伯郡司となる佐伯氏がいます。佐伯氏はのちに、平清盛の庇護のもと安芸国一宮となる厳島神社の神主家を世襲することになります。
 広島に生きる私たちは、瀬戸内の古代史を彩った阿岐国造の血と遺伝子を受け継いでいます。阿岐国造の子孫は、長い時間をこえて、いまも安芸国の各地に根を張り、脈々と命をつないでいるのです。

 さて阿岐国造の祖神、飽速玉命を祀る速谷神社ですが、厳島神社が平家一門の信仰を集め隆昌したのに対して衰退の途をたどることになります。
 江戸時代の安芸国広島藩を代表する地誌である『芸藩通志』には、速谷神社について次のように記載されています。

福島氏、社領を没してより、殿宇頽?せし
(芸藩通志巻五十三)

 関ヶ原合戦の功で安芸と備後の大守となった福島正則の社領没収により、江戸初期、社殿が大いに荒廃していたことがわかります。古代からつづく大社といえども、その所在がわからなくなった神社は決して少なくないのです。

 しかし速谷神社には、ここで再興の転機が訪れます。福島氏改易後の正保三年(1646)、広島藩主となった浅野光晟は、かねてより『神祇宝典』を編纂中であった徳川御三家筆頭尾張の徳川義直から延喜式官幣大社の速谷神社について尋ねられ、急ぎ家臣に調べさせます。
 そして所在や由緒を確認したうえで、二年後にはさっそく藩費をもって社殿を造営し、以来、藩の篤い崇敬がつづくことになります。


 明治にはいると、神社を「国家の宗祀」とする明治政府の政策で、「近代社格制度」が新たに整備されます。そして神社の調査が進み、各地の神社への新たな序列化が進められます。

 速谷神社も、佐伯郡出身の佐上信一内務省神社局長ら有識者を中心に顕彰、社格の昇格、社殿造営の動きがはじまります。
大正時代の神域拡張工事には、官社(官国幣社)への列格を目指して、近隣の二十四の町や村から四千人を超える勤労奉仕の希望があり、樹木の寄進も県内各地から二千本に達したことが記録されています。
 当時の佐伯郡長だった新居善太郎総理大臣秘書官(斎藤実内閣)は、

 一握の土一介の石、総て奉仕の力に由らざるものはなく、
 一樹一草と雖も、総て敬神の誠に出でざるものはなし

と書き残し、古来の名社復活にかける広島県民の熱い心情を伝えています。
 そして阿岐国造の末裔たちの強い願いが実を結び、大正十三年(1924)十月に新社殿が完成、十一月には念願の国幣中社への列格をはたします。

勤労奉仕団

勤労奉仕団

昭和天皇御使御参拝

昭和天皇御使御参拝

 その翌年に行われた「列格奉告祭」には、天皇陛下の勅使をつとめた山県治郎広島県知事や広島藩最後の藩主浅野長勲侯爵をはじめ県内郡市長らがこぞって参列し、県民を挙げた祝賀イベントの盛大さとともに、当時の県全体に広がった喜びの大きさがいまに伝わっています。

 速谷神社は、遠い昔、安芸国を開いた祖先たちの聖地であり、その遠い記憶がいまも刻まれています。
阿岐国造は、安芸国に道を整備し、橋をかけ、治水をし、田畑を開墾し、機を織り、人びとの暮らしを豊かにした殖産の氏族でした。阿岐国造によって、安芸国はつくり固められ、そしてそこから安芸国の生活と文化がはじまりました。

 速谷の神は、安芸国発展の基礎を築き、人びとに恵みをもたらした神です。長い年月、この国の人びとの命と暮らしを見守りつづけてきたありがたい神です。
安芸国の心のふるさと速谷神社を訪ねてみてください。神代の昔から紡いできた安芸の民のうるわしい営みの記憶が、悠久の時間をこえて、きっとよみがえってくるはずです。

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